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「わかる とは かわる こと」
わかるとはかわること 
  
朝一番に触れる水が冷たい季節になって参りました。 

皆様お元気でいらっしゃいますでしょうか。 

今月の浄土宗カレンダーに 「わかる とは かわる こと」と

ございますが、 

私にとりましては、大変、身にしみる言葉でございます。

「わかっているつもりで、何もせず」 

「変われと言われれば、腹が立ち」 

「変われない自分に嫌気がさす毎日」 

今も、さほど成長しておりませんが、

子供の頃の私は、口だけの人間でした。 

母がよく申しておりました。 


「あんたは、

 口は一人前、決意は三日坊主、行動は後日」 

「今日のことは今日のうちに、  
 
 明日からではなく今日からスタート」 

「ええか、今日からやで、今からやるんやで」 


亡くなった母の言葉が、未だに身にしみます。  



仏説無量寿経という経典の中に、

このような一節がございます。


 仏、阿難に告げたまわく 

「寿命、甚だ、得難く
(じゅみょう、はなはだ、えがたく)  
 
 佛世、また、値い難し
(ぶっせ、また、あいがたし)  
 
 人、信慧、あること、難し
(ひと、しんね、あること、かたし)  
 
 もし、聞かば、精進に、求めよ
(もし、きかば、しょうじんに、もとめよ)」 


現代語に致しますと 

お釈迦様が、阿難という御弟子様に仰せになった 

「よいか、この世に生は受け難く  

 仏の教えが、世にある時代に生まれることは、
 
 さらに難しい  
 
 もし生まれたとしても、仏の言葉を信じ、
 
 そして、それを正しく理解するのは難しい、
  
 もし、仏の言葉を耳にしたならば、  

 懸命に仏道を求めよ」 

釈迦三尊

我々は、人として生まれて来たことを 

貴重なことだと受け止めないといけないと、 

お釈迦様は仰っています。 


牛や馬や豚ではなく、鳥や魚や昆虫でもなく、
 
人として生まれて来たことは、 

単なる偶然ではございません。 


過去の命において、

よほどの善いことを して来たからこそ、

人としての命があるのです。


因果応報がこの世の道理でございます。 

過去世において、善い行いをした命には、 

善い生まれという現世があり、 


悪い行いをした命には、 

悪い生まれという現世が待っています。 


もちろん人間界だけではなく、 

地獄への生まれも存在するのです。 


生まれかわり、死にかわり、

我々の人としての 今生がございます。 


始まりがわからないほどの昔から、 

我々は生まれ変わりを繰り返しています。 


記憶には残っていませんが、 

だからこそ、この生涯の貴重さも実感できないのです。 


地獄の時代、動物の時代、そして今とは違う 

人間の時代が、いくつも何年もあったのです。 


ようやく

過去世において善事を成して、人間に生まれても、

過去を知らず過ごすため、 悪事を繰り返します。
 

そしてまた、苦しみの世界に生まれるのです。 


記憶が無ければ、反省は無く、 反省が無ければ、

同じ過ちを繰り返すのは 必然でございます。 


どんな因縁によって、この世に生を受けたのか、 

知る術はありませんが、これが事実で現実なのです。 


ということは、 当然、今生、現世においての行いにより、

来世、何処で、何に生まれるのかが決まるのでございます。



受け止めて、考えて、行動しなければなりません。 



仏教の根本理念は

「悪をつつしみ 善を成すべし」です。 


少しでも悪いことをつつしんで、

出来るだけ善いことをする。 


そして、今生を終えた後は、善き所に生まれかわる。 

常に仏を目指し、そして、やがて仏と成る。 


つまり、最終目標は成仏でございます。 


阿弥陀佛や釈迦牟尼佛のような、 

仏と成ることを目指すのが仏教でございます。 


と思いますと、 

自ずと今の生き方に反省が生じませんでしょうか。 


「わかった」のあと、「かわった」がないと 

本当に「わかったこと」にはならないのです。 


知った後、どう生きるかが、一番大切なことなのです。 

人に言われるから変わるのではなく、 

人は変わりたいから変わるのです。 


心がけが変われば、環境が変わる。 

環境が変われば、行動が変わる。 

行動が変われば、人間が変わります。 


手遅れになる前に 地獄で今生を後悔したところで、 

浪費を悔いる月末のようなものです。 

取り返しはつきません。

請求書は必ずやってきます。 

逃げも隠れも出来ません。

それが因果の道理でございます。 


「悪をつつしみ 善を成すべし」でございます。 


 お釈迦様は続けて、こう仰っています。 

「仏教が、ある時代に生まれることは、

 さらに困難である」


お釈迦様は、今から2500年ほど前の御方です。
 
それ以前から、人間は地上に存在していますが、 

お釈迦様ご降誕以前の人たちは、 

我々のように容易に仏教に出逢うことは、 

叶わなかったのです。 


その上、皆様も実感なさっているとは思いますが、
 
人として生まれ、身近に仏教があったとしても、 

それを信じるのは難しいのです。 


また、正しく理解するのも困難であります。 

だからこそ、お釈迦様は仰っているのです。 


仏の言葉を耳にしたならば、その機会を絶対に逃すなと、 

命を懸けて、仏の道を進むのだと仰っています。 

人生を終えたあと、

閻魔大王のもとで後悔しても遅いのです。 

変われなかった自分を悔いても、誰も助けてはくれません。

  

親が子供を叱るのは、 

きっと、いつまでも、そばで助けてあげられないから 

ではないでしょうか。 

「自分が死んだ後は、  

 この子は一人で生きていかないといけない、

   ならば、困らないように、人に迷惑をかけないように、 
  
 少しでも幸せに暮らせるように、

 今、伝えるべきことをこの子に」 

と育てて頂いているのではないでしょうか。



受け難い人間としての生を受け、 

会い難い仏教に出逢い、 

信じ難い仏教を信じ、
 
理解し難い仏教を「わかる」ということ

困難極まり無い感じですね。



天文学的数字の確率で、今日があることを、 

まずは受け止めていただきたいと思います。 


しかも、それは偶然ではなく必然として受けた、 

素晴らしい善い報いでございます。 


しかし、人間がそれを「わかり」「かわる」ことが 

出来ないので、仏様方は頭を悩まされます。 


知恩院 阿弥陀堂


何方様よりも、悩まれ嘆かれ苦しまれた御方が、

阿弥陀様でございます。 


阿弥陀様は、このようにお考えになられました。 


人は、人として生まれたことを 

尊いとは理解し難い。


人は、悪を慎み、善を成して、
 
善き地に生まれようとし難い。 


人は、仏教に出遇えたとしても、 

信じ難く、実行し難い。 


どうすれば、 人に仏の道を歩ませることが

出来るのかを、 懸命に思案くださいます。 



その結果、ご自分の修行の成果を 

「ある言葉」に込めようと誓われます。 


果てしなく長い修行、厳しく過酷な修行、 

想像を超える苦痛の中、 

阿弥陀様は、その御誓を達成なさいました。 


「南無阿弥陀佛」と称える者を、

私の創る極楽浄土に生まれさせる。 


この御誓を成就してくださったからこそ、

我々は来世を約束されているのです。 


因果応報がこの世の道理でございます。 

現世において、善い行いをした命には、
 
善い生まれという来世があり、 


悪い行いをした命には、 

悪い生まれという来世が待っているのです。 


本来であれば、善い行いを、さほど出来ない我々が、
 
極楽浄土という最高の善い生まれを 

得られるわけが無いのです。 


阿弥陀様の御修行という最も尊い善い行いにより、 

その最高の善い結果という、 

「極楽浄土への生まれ」を頂戴することが出来るのです。 



善因に善果あり、悪因に悪果ありでございます。  


 この世において、なによりの善い行いは

南無阿弥陀佛と称えることだと、

お釈迦様は仰っておられます。 



「南無阿弥陀佛」が 

「阿弥陀様、お釈迦様、二佛の御言葉」です。 



文頭のお釈迦様の言葉を思い出してください。 


もし仏の言葉を耳にしたならば、

その機会を絶対に逃すなと、 

命を懸けて、仏の道を進むのだと仰っています。 


我々は、最高最善の念佛という善因を行い、 

極楽浄土に生まれるという最高の善果を得るのです。 


こんな尊い機会が他にあるでしょうか。 

絶対に逃してはいけません。 命を懸けてでも称えるのです。

仏の道を進むのです。 


喜びの中の喜びであります。 


阿弥陀様が我々のために

「南無阿弥陀佛」を 用意してくださり、 


お釈迦様が我々のために

「仏教」という 仏の教えを残してくださり、 


法然上人が我々のために

「浄土宗」という 念佛の御教えを

弘めてくださったのです。 



御三方の仰っていることを信じるのが、
 
「仰せを信じる」と書き、

信仰とお呼びするものです。


浄土宗の信仰とは、 

「阿弥陀様の万民救済の御誓」と 

「お釈迦様がお弟子様に託された御教え」と 

「法然上人が命懸けで勧めてくださった 

「南無阿弥陀佛」を、信じお称えする。

 これに尽きるのであります。 

法然上人

「わかった」と、お受け取りいただけましたら 

明日からではなく、今日から 

「かわって」共に御称え致しましょう。 

 合掌 南無阿弥陀佛
| 法藏院住職 | 23:24 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
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 ≪…天文学的数字…≫を、&#65375;自然数&#65376;とすると、&#65375;自然数&#65376;は[コスモス]と[カオス]を行き来できる[モノ]に生っている。 

 しかし、これを、≪…「わかり」「かわる」ことが 出来ない…≫が、ライプニッツの理性に基づく自然と恩寵の原理の&#65375;モナド&#65376;に限りなく近づけばなんとかなるだろう。 
Posted by: 『縮約(縮退)自然数』 自然比矩形 |at: 2019/09/29 4:45 AM








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